七夕
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「……ねぇ、大丈夫?」
 ふいに上から声をかけられ、千歳は目を開ける。
 何故か自分は寝転がっているらしい。起きようとするのだが、身体がうまく動かない。
「誰?」
 千歳の顔を覗き込むようにして立っていたのは、暗灰色の髪と緑色の眼をした人。どう見ても小学生には見えない。中学生か、もしかしたら高校生かもしれない。そんな人がどうして小学校にいるのかと、不思議に思った。
 その人はにこりと笑う。
「僕は流火。君は千歳だね」
「どうして」
 名前を知っているのだろう。ああ、そんなことより。
「……棗は?」
「泣いているよ」
「僕、棗が泣くのは嫌だなぁ」
「でも君には何も出来ないよ」
「――どうして?」
 流火は、何故千歳がそんな事を訊くのかがわからないという顔をした。
「どうしてって、君はもう死んでいるじゃないか」
 千歳は一瞬驚いたが、すぐに納得する。
「……そうか」
 五階からコンクリートの地面の上に落ちたら、大抵の人間は死ぬだろう。
 だが、痛いという感覚は無かった。千歳はなんとか立ち上がる。自分が落ちた窓を見上げた。外からでは棗の姿が見えるはずもない。
 次に、隣に立っている流火を見る。
「……流火は、誰なの」
「神様」
 流火はあっさりと答えた。あまりにも突飛なその答えを信じる事なんて、普通はしないだろう。
 けれどこの時千歳は、本当に神様かもしれないと、そう思った。
「神様なら……願いを叶えてくれる?」
 信じたのではなく、信じたかった、のかもしれない。自分の望みを打ち明けるのに。
「……願いって何」
 流火はさして興味を覚えたようでもなく、とりあえず、というように訊いた。
「僕が死んだことを忘れさせてほしいんだ。転校とか、そういうので離れたことにしてほしい」
「何故?」
「棗を泣かせたくないから」
 その答えに流火はくすりと笑う。
「……記憶を隠すくらいは出来るよ。けれど、消す訳ではないからいつか思い出すかもしれない」
 それでもいいのなら。
 千歳はそれでもいいと云った。
 流火は、千歳の頭をなでた。
「それなら、別れを云ってくるといい」
「えっ……」
 千歳は驚いて、流火の顔を見つめる。
「でも……、」
「だって君はそうしたいと思っているだろう。けどほんの数分だけだよ」
 にこりと笑ってそう云った。
「ありがとう!」
 そうして、走って向かう。棗のいる教室へ。



   5

「年に一度……そうだ、七月七日に。その日に会うことにしよう。そしてふたりで誕生日を祝うんだ」
 千歳は思わずそう云ってしまっていた。
 棗が今すぐにでも泣き出してしまいそうだったから。泣いてほしくなかったから。
 云ってから後悔をした。守れないとわかりきっている約束など、何の意味があるだろう。しかも、そのことを棗は知らないのだ。
 けれどその言葉を取り消すことは出来なかった。
「……本当に、会えるの」
 そう云って棗は笑ったのだ。


外はもう完全に日が落ち、空には月が浮かんでいた。どうやら少し眠ってしまったらしい。
 棗は呟いた。
「千歳も……生きていたら、十七歳だね」
 七年前に死んでしまってけれど。
 千歳は窓の縁に腰掛けていた。危ないよと云ったら、大丈夫だよと笑った。
 風で煽られたカーテンが彼の体を外へと押し出した。
 それから後の事はよく覚えていない。通夜にも葬式にも行かなかったと思う。
 唯、毎年七月七日になるとここへ来た。生徒も教師もみんないなくなった後に、こっそり入って唯ずっとここにいた。
 きっとこれからもそうするのだろう。
「織姫と彦星みたいだね」
 年に一回会いに来る――実際には会えないのだけれども。



   0

 街の外れに神社がある。滅多に人の訪れない、小さな神社。
「千歳はもう行ってしまったの?」
 欄干に肘をつき、夜空を眺めている流火に、葉月はそっと声をかけた。
 流火は振り返って微笑む。
「そうだよ。ありがとう……なんて云われてしまったよ」
 その顔には、些か苦笑が含まれていた。


 千歳は云った。
「流火は気付いていたんでしょう。本当は、離れたくなかったのは、棗じゃなくて僕のほうだったんだ。……我儘をきいてくれて、ありがとう」


「本当に棗の為、なんて思っていたら、願いなんて何一つ叶えなかったさ」
 流火は呟く。
 自分はお人好しではない。そんな事の為に、棗から千歳が死んだという記憶を隠し、同時に周りの人間の、千歳の親の記憶でさえもすり替えるなどという面倒な事をする訳がない。
 葉月は聞こえなかったふりをした。
 遥か昔、流火が同じ事を願ったのを知っている。その時、叶えてくれる者などいなかった事も。
 だからこそ、千歳の願いを叶えたのだろう。その時の自分も救われたくて。
「……星が綺麗だね」
 葉月は空を見上げて云った。
 流火は微笑んで答える。
「今日は七夕だからね」
 天の川が音もなく流れている。



七夕【たなばた】@五節句のひとつ。乞巧奠。Aななつの夜。


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